エクスペリエンスデザイナーとしてチャレンジしてきた俺の屍を越えてゆけ
こんにちは、坪田です。
僕は、エクスペリエンスデザイナーとして新規事業を作る仕事をしています。
今日は、デザインのイベントですがデザイン思考の話もUI/UXの話もしません。一部の人にしか刺さらないかもしれないけど、年齢を重ねてもプレイヤーとしてモノづくりをチャレンジし続ける人を一人でも増やしたいと思ってやってきました。
突然だけど、僕には夢が2つあって
一つは、自分が作ったサービスからユニコーン企業ができる事
もう一つは、パリダカっていう方が馴染みがあるかもしれないけどダカールラリーに出場する事。
僕は子供の頃バイクレーサーになる夢を持っていたんだけど、でも叶えられなくて、生きている間にプライベーターとして出場を果たしてその夢を成し遂げたい。できれば身体が動く45歳くらいまでに。
話は戻って今日のテーマ「エクスペリエンスデザイナーとしてチャレンジしてきた俺の屍を越えてゆけ」
僕は今エクスペリエンスデザイナーとしてサービスを作る仕事をしているんですが、ロールモデル不在だったんですよね。デザイナーとして憧れてる人はたくさん居て、佐藤可士和さん、水野学さんやジョナサン・アイブだったり、マイク・マタスなど。ただ憧れの対象であって日本 × デジタルでモノ作りをするロールモデルじゃない。
状況が違いすぎて、その人達の歴史を調べても具体的なイメージが湧かなかった。
とは言え、とにかくイケてるサービスを作りたい想いが強かったんだけど、誰を見習うのか相談先もわからなくて、20代半ばの時はめちゃめちゃ悩んでた。西海岸から憧れのサービスが産まれて焦る一方で、自分が作りたくても技術が足りないし、自分が考える正しいデザインを実行したくてもそれを決めれる立場では無いし悔しい日々を過ごしてました。
当時はデザインと言うのはおこがましいくらいの仕事しかできてなくて、エンジニアが作った画面に色を塗ってバナーを置くだけのベルトコンベア的な作業や、コーポレートサイトの量産。一時期ディレクターとしてワイヤーフレーム引いてデザイナーやエンジニアに依頼する仕事もしていたけど、なんかしっくりこない日々が続いていた。
そんな時、今から10年前の2008年7月11日にiPhone3Gの登場で人生が変わったと思います。
こいつ。黒船でiPhone3Gがやってきて、同時にUIデザインというワードも来日して。今であれば少し古いと言われるスキューモフィズムデザイン。当時は一瞬で魅了されました。
これからはスマートフォンの時代だと思って、当時モバイルビジネスと言えばmobageのDeNAに転職しました。資本もあるし優秀な人も多いけど、僕が思い描くデザインができる状態じゃなかった。iPhoneが発売されても日本はガラケー市場が右肩上がりな一方で、スマホシフトは世界から2年位遅れたと思います。
じゃあ環境を作れば良いと思って、DeNAでデザイン組織を作り始めました。10人くらいから始まって最大で200人程度組織になりました。2013年位の事だと思います。
人集め、環境整備、予算確保。メガベンチャーの中にデザイン会社を作る感じで、必死で権限を確保、仕組み作り、想いを発信し続ける日々だったと思う。匿名のデザイナーを世の中から減らしたくて、デザイナーが発信する場所、UI Crunchというイベントを立ち上げて業界のプレゼンスをあげる活動もしてました。
デザイン組織を作った時のノウハウは、noteやSperker Deckにスライドを掲載しているので、具体的な取組内容を知りたい人はそちらを参照してもらえればと思います。
スタートアップのデザイン責任者がやるべきことまとめ
https://blog.tsubotax.com/n/n8f8b8d76f575
そのプレゼンスをあげる活動に関して、自分の中では正義で、ルーク・スカイウォーカーだと思ってたけど、おそらく周りからは帝国軍のような存在に思われていて、ダース・ベイダー化していたと思います。
スマホシフトに振り切りたい気持ちが強かったし何より西海岸に負けないUIをデザインしたかった。
うまくいかない事も多い中、当時クローズドSNSの「Path」というアプリのUIが素晴らしすぎて触った瞬間に敗北を感じてたし、今に見ておれ!!と心のなかで繰り返してた記憶があります。
マネジメントを学びたくて、名前は出せないけど超有名な某ゲーム会社にアルバイト的な感じで1週間位現場に忍び込ませてもらってノウハウを学んだり、今思えばかなり無茶をしてたと思います。
対外的にはUI Crunchというイベントを立ち上げて発信の場を作ったり、南場さんにデザインを語ってもらったり、この記事は過去最高PVが出たとメディアの中の人から聞きました。そういう活動の結果、デザイナー以外の人にリーチできてきて、経営トップが発言すると中の変化も起きてきた。
仲間も増えて、デザインのプレゼンスも上がってきたし、自分の立場もあがったんだけど、その時ジワジワとこいつがやってきたんだよね。
こいつ。死神。デザイナーとしての死。マネジメントしてた期間は3年位だったけど、そのまま継続したら管理職としては出世した一方でデザイナーとしては死んだと思う。
2010年くらいからはこんな推移で
2012年が200、2014年が80、2016年が5で、今は0。これは評価をする人の人数。今はチームを組んで仕事するので、関わる人は多いけど部下ではなくパートナーとして対等な立場で仕事をしています。
このまま生きていけば暮らしには困らないけどデザイナーとしては死ぬなと。
企業価値をあげるための仕事はできたかもしれないけど、自分が体験設計に深く関わってサービスを作る機会はもう無いと思ったんですよね。
そんな事を考えていたらDeNAと任天堂が業務提携して仕事で関わる機会があって、モノづくりの姿勢に感銘を受けて、ああやっぱり世界にチャレンジしたいと思って辞めるのを決意した。
今思えばその機会がなかったら、この場にも居ないかもしれないのでDeNAと京都のその会社には感謝しています。
これは今日伝えたかった事の一つでマネジメントかプレイヤーか悩む時にどうしても報酬の話がついて回ると思います。
ストック報酬も含まれるので正確な比較はできないけど、マネジメント時代の3倍以上は稼いでると思います。何となく避けがちだけどデザイナーがお金と向き合う事はとても大事だと思います。組織のトップだった時代も自分の給与をあげないと若手の給与も必然的にあげられないので意識してきたけど、稼げるというモチベーションも必要だと思う。
あと、僕の場合はダカールラリー出場で2000万位投資したいのでやっぱりお金も大事。
その後は、グローバルにチャレンジしたくてBCG Digital Ventures Tokyoの立ち上げに参加しました。
ここ数年、経営コンサルティングファームがデザイン思考を取り入れる動きが世界的に増えていて、BCGがデジタルプロダクトに特化したインキュベーションを行うBCGDVのプロジェクトで、ユニ・チャームとBCGのジョイントベンチャー、Onedotという会社を立ち上げました。
Onedotは上海と東京の2拠点で活動してる中国市場向けの育児スタートアップです。まだまだ成長途中だけど、最近1000万フォロワーを超えて中国市場でも一定の成果がでてきたと思います。
デザイン思考の話はよく聞くけど、会社を作って事業を立ち上げた具体的な公開例は少ないと思うので、こちらも興味ある方は参照してみてください。
Onedot立ち上げ当時はまだBCGDVに所属していて、離脱してまた次のプロジェクトに関わるか、そのままOnedotでチャレンジするかの2択だったんだけど、Onedotに所属しながらデザイン会社を立ち上げるという3つ目の選択肢を作って兼業でBasecampという会社を作りました。
スタートアップ生産工場を作りたいと思って作った会社です。
いつかユニコーンになる会社のサービスが作れれば良いなと思って、作ることを仕事にしています。
2018年は、bosyuとIRIAMというサービスを作りました。ビジネスやプロダクトマネジメントに越境して、サービスを作って譲渡したり、経営者のビジョンを聞きながら組織もサービス開発するような仕事をしています。
これも詳しくはnoteに書いので、興味ある人は覗いてみてください。
SNSを使ってカンタンに募集ができるサービスbosyuをリリースしました
https://blog.tsubotax.com/n/n612d8ba662d7
bosyuというサービスを作って譲渡するまでの流れ
https://blog.tsubotax.com/n/n80412ab1e8b4
IRIAMのプロダクトマネージャー兼デザイナーとしてやったこと
https://blog.tsubotax.com/n/na37f67d25532
振り返ってみると、プレイヤーで居続けることの難しさを表現するとこんな感じだと思います。
特に35歳を超えてからは、現場で価値を発揮するために期待値やスキルが上がりすぎて、逆斜面を登るような感じで、生活環境や体力的に気を抜くとあっと言う間にデザイナーとしての死が訪れる。
田川さんの話でもあったけど、デザインだけではなく近傍領域にどんどんジャンプしてチャレンジしています。
デザインの仕事をする上で、個のクリエティビティやセンスと、プロセスやチームワークを、高いレベルで昇華していくには、越境していく必要がでてきます。
今はこんな感じで登れるかわからない岩に飛びついて、いつ落ちるかわからない不安があるけど。
ただ、登りきって成果がでた時は最高に嬉しい。
やっぱりユーザーから評価されるのが一番嬉しいし、日本の強みを世界に届けられる仕事はやりがいがあります。僕の中でグローバルの定義は海外で仕事する事でも、英語で仕事することでも無く、日本の財産を価値に変えていく事だと思っています。
これはIRIAMリリース時に公開したスタッフロールとプロジェクトメンバーで撮影した写真。
これからも作り続けるし、その記録を誰かの為に残し続けようと思います。よく海外の事例の話でデザイナーが上流プロセスに入り込むみたいな話も誰かが切り開いてきた結果だと思うんです。作るプロセスをショートカットした理想論はありえない。
そんな想いで一合目から登っていきたいと思います。
これからも1年で最低ひとつはサービスを立ち上げたいと思っているけど、実際にはこんな凸凹道で、いつまでプレイヤーで居られるのか、いつ死神がやってきて死ぬのか、もしくはダカールラリー出場して物理的に死ぬかもしれない。
今日もそのひとつだけど、可能な限り誰かの参考になるかもしれないレコードを業界に残していきたいと思います。
この写真は出そうか迷って直前で入れました。
若い時にレースに出た時の黒歴史写真。日本のバイクが最高に好きでこれはYAMAHAのYZ426Fというモトクロスバイク。もっとスキルを磨いていつか2輪の電動モビリティを作ってみたい。
そんな夢を持ってまだデザイナーとして活動し続けたいと思います。
僕が死んだときはその屍を超えていって欲しいと思います。
以上で話は終わりです。
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